※アスタル×トリシュナですが、アスタルはほぼ出てきません。
     原作にいないモブキャラがたくさん出てきます。
    ana taga

       ◇

     はじめトリシュナがその場所へ連れてこられたとき孤児院にはすでに十人の年頃の近い女の子たちがいて、トリシュナは受け入れを断られたのである。というのもそこはとても小さな慈善施設で、小太りした初老の男とその妻である痩せぎすの気難しそうな夫人がたった二人きりで営んでいるようなところだったのだ。トリシュナは齢十歳と幼いし、小さな女の子を引き取るにはちょっと人手が足りないというわけらしい。
    「それにこの子が入ると十三人になるしね」
     背筋をピンと伸ばして顎を反らす高圧的な態度で夫人が言った。家に入るのがその数では不吉だということらしい。詰襟の暗い色のワンピースの襟元には小さな十字のネックレスがかかっている。神経質で迷信深い、そういう様子だった。あるいは断る口実を見つけられれば何でも良かったのか、夫人は胡乱な目つきで粗を探すようにトリシュナのことを眺めまわした。細く吊り上がった眉には厄介ごとはごめんだという感情がありありと表れている。ぎょろぎょろよく動く小さな目と相手を探るために首を長く伸ばす仕草はどこか鶏を思わせるようだ。そうしてすぐに夫人はトリシュナの手と足と、顔の半分を覆う痣に目をつけた。不潔なものを見たように顔を歪める。
    「それにその鱗みたいな……」
    「おい」

     遮るように怖い声を出したのは、トリシュナをここに連れてきたアスタルという若い兵士の男である。薄汚れた草色の軍服と、濃い色のサングラスを身に着けている。とりわけ大柄ではないが筋肉質な体をしており、鋭い声音には戦場に立つ人間の威圧感を匂わせた。アスタルは夫人が不快で差別的なことを言おうとするのを見て取ると、トリシュナとの間に立ち塞がるように頑丈そうな革のブーツを履いた足を割り込ませた。その足の後ろにおずおずとトリシュナは身を隠す。低い声でアスタルは夫人に何か毒づいたようだったが、それはトリシュナに聞こえないように配慮されていたので細かいところまでは分からない。ただ夫人の方は腕っ節の強そうな軍服の男に凄まれて縮み上がったようだった。腹が立つやら怖いやらと言った様子で顔を赤くして、くっくっ、と短く声を詰まらせて、それはますます鶏の姿に似ている。
    アスタルは説得を試みるというよりはほとんど脅しに近いような態度でトリシュナをここに置くように詰め寄った。夫人はこわばりながらも意固地に口を引き結んでいる。するとそこでようやくそれまで様子を見ていた男―この孤児院の院長が、まぁまぁ、と慌てたように間に割って入ったのだ。
    「いくところがないんでしょう。わかりましたよ。もうすぐここを出る子がいるんだ。ちょっとの間くらい子供が増えても構わないさ」
    「あんた!」
     夫人が非難するような声で叫んで夫を振り返った。 汗をかいているのは太っているせいなのか、目の前の揉め事に動揺しているせいだろうか、院長の男はハンカチで額を抑えつつ取り繕うようにニコニコと大袈裟に笑ってトリシュナの頭を撫でた。
    「大丈夫、可愛い子じゃないか」
     それでトリシュナは孤児院で暮らすことが決まった。



    「それじゃあな、頑張れよ」

    話がつくとアスタルはあっさりした口ぶりでトリシュナにそう言った。トリシュナを安全な場所に連れていくまでが彼の仕事で、あとは軍隊に戻るらしい。
    「私も行っちゃダメなの?」
    未練がましくトリシュナが訊ねると、そんなことを言われるとは思ってもみなかったのかアスタルは少し驚いたように黙り込み、それから膝を折ってしゃがんでトリシュナに目線を合わせた。
    「まぁ、お前が自分の身を自分で守れるようになったらだな」
     俺には誰かを守ってやるような余裕はないからな。途端にがっかりした表情を浮かべるトリシュナに苦笑して、アスタルはポケットを弄ると何かトリシュナの手に握らせた。
    「ほらよ、チビすけ。餞別だ」
     それは小さな折り畳み式のナイフで、麻の紐にペンダントのように木製の持ち手がぶら下がっている。刃先を畳んでしまえば木で出来たささやかなペンダントかお守りなんかの類に見える。
    「ゔっ、ゔぅ、う」
     お礼を言おうとして、トリシュナは嗚咽した。急に胸が詰まって何も言えなくなってしまったのだ。おぉう、おぅ、と悲しみのままに泣きじゃくり、けれどしばらく後にはなんとか持ち直してぐっとナイフを掴むと麻紐の輪を首にかけて柄の部分を服の下にしまった。
    「じゃあ……、じゃ、あ、また、ね……!」
     涙でぐしゃぐしゃの顔をキっと振り仰いでトリシュナがそう言うとアスタルはやっぱり驚いたような顔をして、それから励ますようにトリシュナの頭をぽんと叩いた。
     
       ◇

     孤児院には大人は二人ばかりで人手が足りなかったから、トリシュナを含む孤児たち十一人もみんな働き手の内だった。ところでトリシュナには少し特殊な生い立ちがあって、物心付いた頃から家族に厭われ部屋に閉じ込められて育っている。『そこにいるだけで周りの人の気持ちを沈ませる不吉な子供』。そう言われて、十歳までをひとりきりで過ごしてきた。だからはじめに夫人が自分のことを「不吉」と言ったことにも慣れていて、実のところそんなに傷ついていない。かえってアスタルが自分のために夫人に怒ったのを恥ずかしく思っているくらいなのだ。
     ところが孤児院に来てこうして他人だらけのなかで過ごしてみると、家族がトリシュナに言ったことは嘘か思い込みでしかなかったことが分かった。夫人は神経質でいつもカリカリしていたが、院長のおじさんは対照的に穏やかだったし、同じ年頃の子供たちも泣いたり喧嘩はするけど、それと同じくらいよく笑った。
    トリシュナを家から連れ出すとき、自分と一緒にいて平気でいられることをアスタルは「俺は特別だからだ」と言ったが、今思えばそれも信じている家族に酷い嘘をつかれてきたことをトリシュナに悟らせないようにするためで、彼の優しさだったのだ。アスタルがそういう風に自分に親切にしてくれたことが嬉しいのでトリシュナは別に自分の境遇に落ち込んだりしなかった。けれど全く他人と過ごしたことがない、部屋から滅多に出たことすらない、ということには別の方向で困ってしまったのである。

    「まったく! 料理もできない、掃除も満足にできない。なにをやらせても鈍臭いし、いったい何ならできるんだろうね! 」
     きーんと響く声で夫人に怒鳴りつけられてトリシュナは思わず首を竦めてしまった。今朝も洗ったばかりの洗濯物のかごを干場に運ぶ途中で転んで泥の中にひっくり返してしまったばかりである。皿を洗えば幾枚かは必ず割ったし、床の水拭きをしては桶をひっくり返し、鍋の中身を焦がさずに煮立たせるなんてことも苦手だった。
    「あの、ごめんなさい……えぇと、わたし」
     制服代わりの白いエプロンの裾を握りながらトリシュナがまごついていると、夫人はふーっと長い溜息を吐いた。
    「もういいよ。あんたは他の娘の手伝いをしておくれ。裏にいけば誰かいるだろう」
     トリシュナはすっかり落ち込んで、とぼとぼと台所の勝手口から裏庭の方へ出て行った。空はすっかり晴れていて良い天気である。洗濯物がよく乾きそうだが、それはトリシュナの所為で洗い直しになってしまっている。自分で台無しにしたものに、また手を出すのも叱られそうだ。トリシュナが他に何か出来ることはないかと辺りをきょろきょろ見渡していると、庭の片隅にある小さな鶏小屋の前でぽつんと立ち尽くしている女の子を見つけた。施設に来て日の浅いトリシュナはちょっとだけ考えて、彼女の名前を思い出した。確か年は一つ上の十一歳で、アイーシャという名前だ。淡い栗色の髪の毛をゆるく三つ編みのおさげにしている。

    「どうしたの? 」
     ひとまずトリシュナは彼女に話しかけてみることにした。他の子たちよりは忙しくなさそうで、声をかけやすかったというのもある。トリシュナに話しかけられるとアイーシャはハッと振り向いて、それからひとりで心細かったようにほっと表情を緩ませた。
    「あなた、最近来た……トリシュナだったわね? 困ってたの。私、鶏を絞めてこいっておかみさんに言われたんだけど、でも怖くって」
     アイーシャの持っている切れ味の鈍そうな鉈と血受けの桶をトリシュナはちらりと見た。小屋のなかでは数羽の鶏が呑気にこ、こ、こ、と鳴いている。
    「あの……わたし、それ手伝うよ」
    「ほんとう⁉ あぁ、よかった。ありがとう! 」
     トリシュナが申し出るとアイーシャは心の底から感動したようだった。蒼褪めていた頬にぱっと血の気が宿る。失敗続きのトリシュナは、年上の女の子にそんな風に喜ばれて少し誇らしくなってしまう。猫背がちな姿勢を心なしかピンと伸ばして鶏小屋に入ると、慌てたようにアイーシャも後ろから付いてきた。
    「そしたら鉈を」
    「ううん、大丈夫」
     錆びついた鉈をアイーシャが手渡そうとしてきたがトリシュナはそれを断った。代わりに胸元からナイフを取り出す。アスタルから貰ったナイフだ。折り畳みの刃を開くとパチンと音がして、よく切れそうな白い刃先は陽の光にキラキラ光って綺麗だった。
    「えっと、そしたら……抑えててくれる? あのね、ここの羽のところ持って、地面にぎゅって……」
    「う、うん」
     トリシュナはあまり敏捷でないので鶏を捕まえるのはアイーシャの役割になった。地面に置いた太い木の枝をギロチン台のようにして頸を押し付けて固定する。すると迫りくる死の予感が分かるのか、にわかに鶏も騒ぎ始める。ぎゃーぎゃーという悲鳴を聞きながら、鉈で首を切りそこなったときの鶏の苦痛の抵抗を思い浮かべてアイーシャはぎゅっと眉に皺を寄せた。ところがトリシュナは奇妙なくらい落ち着いて、鶏の首に指をやり羽毛を逆立て刃を入れる場所を作ったりしているのだ。それから後は、ぴっ、とほんの一瞬、刃を引いただけのようだった。それで鶏は沈黙し、あとはあれよあれよという間に木の枝を伝って大量の血が流れてきたのでアイーシャは呆気にとられてしまった。
    「すごいわ、トリシュナ」
     呆然としたまま、アイーシャがそう呟くとトリシュナは孤児院に来てはじめて得意そうに少し微笑んだ。
    「アスタルが教えてくれたの」


       ◇


     鳥や魚を切ったり捌いたりするのはトリシュナの得意な仕事になった。孤児院の経営にはいくらか公的な補助が得られたもののそれほど余裕があるというわけではなかったから、肉を料理する頻度はそれほど高くはなかったが、魚であればよく食卓に上がった。
    何をやっても不器用なトリシュナが周りから「手際がいい」と褒められる唯一の仕事のことをトリシュナは気に入っていた。本当にすごいわ。いつ終わったのか分からないぐらいよ。あっという間なんだもの。他の子どもたちからそんな風に褒められると、トリシュナは恥ずかしがって俯いた。だけどやっぱり嬉しくもあり、ふとしたときには胸に手をあてて、服の下にあるナイフに触れながら、自分にこの技術を教えてくれたアスタルのことを思い浮かべるのだ。

    トリシュナは戦争孤児である。町が戦火に巻き込まれたとき、先に述べた特殊な事情から部屋にひとり閉じ込められていたところをアスタルに見つかり保護された。戦争というものにもルールがあるらしく、トリシュナのような民間人を戦場で保護した場合には安全な地区まで送り届けなければならないようだった。それでしばらくはアスタルに連れられて旅をしたのである。といっても数日のことだが、トリシュナの住んでいた町は僻地にあり戦場から遠くて孤児院があるような大きな街に連れて来られるまでは森やら山やらを歩いて抜けなくてはならず、夜はアスタルと一緒の毛布に包まり眠り、同じ食事を分け合って過ごした。
    食事はアスタルが携帯していた缶詰や四角いクッキーなどが殆どだったが、たまに魚や野鼠を捕まえて食べたりもした。もちろん鳥も捕まえたことがある。アスタルは手先が器用で、木の枝や蔓を使って簡単な罠を作るのが上手かった。捕まえた生き物を殺して捌くのも。アスタルはトリシュナにナイフの使い方と生き物の殺し方を教えた。柔らかくて温かい、動く命を奪うのを幼いトリシュナが怖がっても、アスタルはそれを必要なことだと言って譲らなかった。最初に殺したのは太った野鼠だ。
    「可哀想だよ」
    怖気づくトリシュナの背にかぶさるようにして、ナイフを持つ手をアスタルが握り支えている。そのアスタルを振り向きながらトリシュナは懇願するように訴えたが、アスタルは淡々とした返事だった。
    「まぁな」
    さらりとした口ぶりはトリシュナの手の中でトクトクいう鼠の心音にそれほど興味がある様子ではない。続けて気怠げに口を開く。
    「だけど」


    「あーあ」
    うんざりしたアイーシャのため息でトリシュナは我に返った。今は洗濯室で取り込んだシーツを畳んでいる。そこに新しく乾いた洗濯物を持ってアイーシャが現れたのだ。ふぅ、と息を吐いて床に下した籠にはここの孤児たちの制服であり仕事着である白いエプロンが幾枚も積みあがっている。
    「これ、これからアイロンもかけるのよ。嫌になっちゃう」
     荷物を運んで額に浮かんだ汗を拭きながらアイーシャが愚痴を口にする。孤児たちは毎日せわしなく働いて、掃除や畑仕事なんかで毎日頻繁に汚れるので洗濯物の量が多いのだ。
    「もっと楽な仕事がしたいわ」
    トリシュナの傍に座って鉄製のアイロンと台を準備しながらアイーシャがそう言った。鶏小屋で仕事を助けてやってからアイーシャはトリシュナに一目置いていて何かと親切に振舞ったし、それでふたりは随分仲が良くなったのである。トリシュナは少し首を傾げて訊ねる。
    「楽な仕事があるの? 」
    「あるわ。ひとつ飛び切り好待遇で楽なことが」

    アイーシャが言うにはそれは「院長のお気に入り」になることらしい。正確には、夜に部屋で仕事をする院長に、夫人の用意する菓子やらサンドイッチの夜食を届ける役目のことだった。ただその役割はいつも院長の指名で決まるので、それで「お気に入りになること」などという言い方をしたのだ。
    「ね、とっても楽で簡単でしょう。それにずるいのはね、夜遅くに働くからって、日中は昼まで寝ていていいのよ」
    「ふぅん」
    アイーシャは悔しそうに言ったが、長い間、部屋に閉じ込められて暮らしてきたトリシュナには昼まで一人で部屋にこもっていてもいいと言われてもあまり羨ましく感じなかった。自然と返事も気のないものになる。けれど言われてみて思い返せば、朝食の時間にいつも姿の見えない子がいたような気がする。

    「ええ、そう。あのお寝坊さん。今のお気に入りはエミリーよ。わたし羨ましくって夜中に廊下で待ち伏せしたわ。『仕事を代わって』ってお願いするために。エミリーだけじゃなくて、前の子にも、その前の子にも。でもみんな決まって怖い顔をして『あっちへ行って』って言うのよ。せっかくの特権を譲りたくないんだわ」

    変なの。話を聞きながらトリシュナは思った。なんだかとても違和感があるようだ。
    「そんなに良い仕事なのに、どうして前の子やその前の子は仕事を続けていないの? 次の子に変わっちゃったんでしょ? 」
    「それなんだけど」
    アイーシャはトリシュナの方にぐっと身を乗り出すとその分声を潜めて言った。
    「院長先生のお気に入りになった子は、そのあと決まってみんなより早く里親が見つかってここを出ていくの。……贔屓があるってことよね。それでその後に次のお気に入りが選ばれるってわけ。ご飯も寝る場所もあって感謝してるけど、こんな働きづくめの暮らしからは早く抜けたいじゃない。だから私、朝は寝坊をしたいっていうだけじゃなくって、先生の夜食当番になりたいのよ」
    だから今度こそ絶対、仕事を変わってもらわなくっちゃ。独り言のように最後はそう結んでアイーシャの話は終わった。


       ◇


     騒ぎというのはその夜起きた。皆が寝静まった後、喉が渇いて水を飲みに台所へ降りてきたトリシュナは勝手口の方向がなにか喧しいのに気が付いた。よく聞けばそれは裏庭の鶏小屋の方で聞こえるようである。夜は寝ている筈なんだけどな。トリシュナはそう独り言ちて、そっと勝手口から庭に出た。鶏小屋は今では専らトリシュナの大事な仕事場みたいなものであったし、責任感のようなものがあったのだ。外はちょうど涼しいくらいの風が吹いていてトリシュナの長い髪を揺らした。月の明るい良い晩である。他に聞こえるようなものはない静かな夜だったから、勝手口を出た瞬間から喧しいのは鶏がぎゃーぎゃー喚く声だと知れた。それでもなにがそんなに騒がせるのかと、トリシュナは服の下のナイフを握りしめながら静かに小屋に近づいていく。狐かなにか、来たのではないかと思ったのだ。あるいはもう少し大きな、凶暴な獣だったらどうしよう。そんな風に緊張して中を覗き込んだトリシュナは騒ぎの原因を見て目を丸くした。
    「あ……」
     そこにいたのは少女である。小屋の床に座り込み、膝を抱いて静かに啜り泣いている。お揃いのエプロンを見るからに同じ孤児院に住む子供のひとりに間違いない。咄嗟に名前が出なかったのは驚いたせいというだけではなく、トリシュナが今までその子とあまり顔を合わす機会をもたなかったためである。少し逡巡した後、トリシュナは状況から判断してこう呼びかけた。
    「エミリー? 」
     バっと少女が顔を上げる。月明りが泣き腫らした様子の彼女の顔を照らす。夜で色味は分からないが、ふわふわとした明るい巻き毛のとても可愛い女の子だった。
    「ええ、そうよ……あなたは? ううん、誰でもいいわ。閉じ込められたの、お願い、ここから出して……」
     トリシュナが小屋の鍵を開けるや否や、エミリーは転がるように中から飛び出してきた。そのまま勝手口に向かって走りだそうとするが、長くしゃがみ込んでいたせいか上手くいかず足をもつれさせて地面に転んだ。トリシュナが驚いて助け起こすと、肩が酷く震えていて動揺しているようだった。
    「だ、だいじょうぶ? 」
     心配して問いかけるトリシュナの言葉が聞こえているのかどうか、エミリーは口の中でぶつぶつと何事か繰り返し錯乱している様子だ。それでも辛抱強く耳を傾けていると何とか、アイーシャが、と聞き取れたのでそれでトリシュナはピンときた。昼間の会話から察するに、どうやらアイーシャは無理やりにでも彼女に仕事を変わってもらうことにしたらしい。それで鶏小屋に呼び出して鍵をかけてしまったのだろう。
     トリシュナは困って周りを見渡した。勝手口はすぐそこで簡単にたどり着けそうに見えるけど、エミリーの様子は明らかに普通じゃないし、誰か人を呼んできた方がいいかなと考えたのである。そんな風に思案していると不意に強い力で肩をぎゅっと引っ張られたのでトリシュナは悲鳴をあげて尻もちをついた。地べたに転んだままのエミリーが縋り付くようにトリシュナの肩を掴んで揺さぶっているのだった。
    「ね…ねぇ、あなた、私の代わりにあの子を連れ戻して」
    「うぅ、痛いよ。離して……」
    「じゃないとあの子、アイーシャが、私の代わりに先生に夜食を届けにいくわ」
    それがあまりに冷たく絶望した声なのでトリシュナは思わずドキリとした。
    「……仕事を取られるのがいやなの?」
    鬼気迫る様子に気圧されてトリシュナは恐る恐る口にする。するとエミリーはぶんぶんと千切れんばかりに首を振るのだ。両手で顔を覆い啜り泣く、その指の隙間からくぐもった震え声が聞こえた。

    「あそこでなにがあるのか知られたくないの。死んだ方がマシ。黙って死ぬ方がマシよ」


       ◇


     厨房の隅の暗がりに、アイーシャはいた。
    友人を連れ戻すために急いで家の中に戻ったトリシュナは、探していた相手が食料棚の陰に隠れてしゃがみ込み、ぎゅうと縮こまっているのを見つけ「わっ」と驚いた声をあげた。
    「どうしたの? 」
    どきどきと鳴る心臓を抑えてトリシュナがそう声をかけると、アイーシャはびくっと肩を揺らして顔を振り仰ぎ、それからトリシュナの姿を見て泣きそうに顔を歪ませた。顔面は蒼白で怯えた表情をしている。足元の床にお茶を入れるためのポットが転がっていることにトリシュナは気が付いた。
    「それ、先生のところに持って行かなかった?」
     なにかにぶつかったのか少し底がひしゃげている。アイーシャの目が動揺に泳いだ。少しの間があって、囁くような声で紡ぎだす。
    「……持っていったわ」
    「それで?」
    「わかったの」

     今までここでなにがあったのか、分かったわ。アイーシャは凍える声で呟いて膝を抱き寄せた。細い指が小刻みに震えている。
    「でもあなたには言えない……。こんな恥ずかしいこと、誰にも知られたくないもの。みんなもそうだったのね……。でも私、逃げてこれたわ。持ってきたポットで咄嗟に顔を殴って。蓋が開いて熱いお茶が飛び散ったから、それで隙ができたの。でも、すぐ追いかけてくるわ。そうしたら私、どうしたらいいの? エミリーに代わるなんて言わなかったらよかった。どうしていいか私、わからないの……」
     鶏小屋の前で立ち尽くしていたときのように、アイーシャは心細そうに困り果てた様子だった。それでトリシュナはおずおずと彼女に申し出たのだ。
    「あのね、わたし、手伝うよ」
    「……え?」
    「先生にお茶をもっていくの」
     アイーシャの顔が蒼褪めた。だめ、と小さく呟く声を無視してトリシュナは床に倒れたポットを拾い上げて胸の前で抱えた。鶏小屋の扉をあけるぐらいなんでもない仕草だった。
    「大丈夫」
       

    廊下の先の一番突き当りに院長先生の部屋がある。トリシュナはその部屋のドアを控えめにノックした。火傷の治療をしていたのだろう。白いガーゼを顎の下にあてながら不機嫌そうに扉を開けた院長はそこにいるのがトリシュナだと見て取ると少し驚いたようだったが、すぐに愛想のいいニコニコ顔に表情を変えると「それでもいいか」と呟いた。トリシュナに言ったというよりは独り言のようである。
    「ありがとう。中へ運んでくれるかい、そこの机に。いい子だね」
    台所で調達しなおしたカップとポットの載ったトレーをトリシュナがそっと机に置くのを見届けると院長はトリシュナの肩に手を置いた。さり気なくポットから遠ざけるようにトリシュナの体を引き寄せる。袖のないワンピースから覗くトリシュナの剥き出しの腕の鱗状の痣を太い指がさり、となぞった。
    「どうして君がここに来たんだい? 」
    「代わりに行ってって頼まれたの」
    「ああ、そうか。そうか」
     少し訝しむようだった院長先生はそれを聞くと大げさなくらいに頷いて笑みを深くした。トリシュナのことを友達から身代わりに突き出された羊のようにでも思ったのかもしれない。
    「君は本当に気の毒な子だね」
     おいで、と院長は言って部屋のベッドに座るようトリシュナを促した。表面的には親身に話を聞こうとする慈善者の雰囲気で隣に腰を下ろす。
    「燃える家に一人で残されていたんだろう? 」
    同情的な口ぶりだった。何を言おうとしているのか知ろうとトリシュナは大きな目で院長の顔を見上げた。
    「家族も、友達も、君をここに連れてきた男でさえ、今も君のことを守ってくれようとする人間が誰もいないのは本当に気の毒なことだよ」
    「あっ」
     不意に強い力で押されて、トリシュナは仰向けにひっくり返った。捲れ上がったワンピースの裾から痣に覆われたトリシュナの痩せた足が腿の付け根まで露わになる。鱗のようにぼこぼこと出っ張った肌の感触を珍しがるように院長は手のひらで撫で上げた。トリシュナは頭にきた。
    「いや!」
    「女房が、数が不吉だから早く減らせってうるさいんだよ。エミリーはだいぶ傷んでてね、もうそろそろだと思ったから君を迎え入れたんだ。古いのをダメにする前に、新しいのを用意しておこうと思って」
     小さな女の子が好きだ。というのが院長の言うことだった。特に痩せていて気の毒そうな様子の、そういう娘をいたぶるのが好みである。そのうち弱って死んでしまってもごまかしが利くような、子どもが絶えず入れ替わっても疑われない場所として、男は孤児院の経営を装っていた。妻は夫のおぞましい愉しみに気付いてはいたが、異常者とも思える夫の手綱を引くのはとうに諦めて、ことが露見しなければよいとその手伝いすらしていたのである。
    「本当は今夜、間引きするのはエミリーのつもりだった。けれどあの子はここに来なくて、別の子が来た……その次に君が。うん、身代わりというわけか? 私としては散々焦らされて、それならもう君でいいかという気持ちなんだよ」
    気の毒だと院長はまた口にした。けれどその同情的な言葉とは裏腹に、目の前の子供が哀れであることを心の底から愉しんで抑えきれない、にやついた笑顔を浮かべている。ふっとトリシュナの肩から力が抜けた。
    「あのね」
     トリシュナは言った。
    「たすけてくれなくたっていいの」

     他に人と接する機会がなかったから男の人の体温をこんなに近くに感じるのは森でアスタルといたとき以来、二度目のことだった。トリシュナは自分の手にナイフを握らせたときのアスタルのことを思い出していた。ぎゅっと押さえつけている手の中で鼓動を打つ野鼠の心臓の音。もう一方の手にナイフの冷たくて固い感触がある。
    「可哀想だよ」
    縋るようにトリシュナは言った。怖くて震えるトリシュナの手を包むようにアスタルが手を重ねて、ナイフをしっかり握り直させた。
    「まぁな」
    気怠げでつまらなそうなアスタルの声。だけど―、とアスタルは言ってトリシュナの手を導いた。
    「人を殺すときはもっと『可哀想』だって思う」
    そのための練習だった。


     院長の男はトリシュナが持っているものを見つけると一瞬、不思議そうに目を瞬いた。トリシュナが強く手の中に握っている白っぽいきらきらした光。やがてそれがナイフなのだと気がつくと、馬鹿にしたような呆れたようにも見える嘲笑の表情を浮かべて口を開き……それからゆっくりと崩れ落ちた。贅肉に膨れた体から嘘みたいに大量の血が流れ出して、見る見るうちにシーツが真っ赤に染まる。
    「そんなもので」
    そう言いかけたようにも見えた男はきっと最後まで自分が小さな女の子に殺されたなんて気づきもしなかっただろう。鳴き声を上げる間もなかった鶏のように。それはトリシュナのたったひとつの他人より良くできることだ。

    ドサリと倒れ被さってきた院長先生の体は不快に重たく、その下から抜け出すのにトリシュナは汗だくになってしまった。ふぅ、と息を吐いて小山のような死体を眺め下ろす。
    と、ふわりと何かが頭のてっぺんを撫でた気がした。
    「アスタル?」
     手のひらの温かい感触がしたと思って見上げるが、それは窓から入る風が通り過ぎただけらしい。けれどトリシュナは安心して微笑んだ。
    「ありがとう」


       ◇


    トリシュナが廊下に出ると、異変を感じて様子を見にきたのだろうか、院長夫人が階下から上がってくるところだった。
    「もう十二人になったから大丈夫だよ」
    トリシュナがそう声をかけると夫人はぎょっとした顔でトリシュナのことを見返し、そのうち何か思いあたることがあったのか夫の寝室へ慌ただしく駆けていった。

    汚れてしまったエプロンを外して洗濯かごに放り込む。そのときだけトリシュナは少し申し訳ない気持ちになった。一緒に過ごした子供たちのことを考えて、また洗い物に苦労させるかもしれないと思ったのだ。部屋に戻らず一晩中台所と続きの廊下を行ったり来たりしていたらしいアイーシャは、トリシュナの姿を見つけると慌ただしく傍に駆け寄ってきた。いつのまにか空が白み、もうすぐ朝が来るようだ。トリシュナはそのまま堂々とした足取りで孤児院の表門へ向かっていった。戸惑って不安そうなアイーシャの声が後ろを追いかけてくる。
    「どこへ行くの? トリシュナ」
     浮足立った気持ちでトリシュナはその言葉を背中で聞いた。胸元にしまったナイフの柄をしっかりと握りしめて、トリシュナはこれまで出会ってきた人の言葉を思い返す。
    『あなたは周りを不幸にするからお外に出ちゃいけないの』『お前は不吉だから、うちには受け入れられないよ』
    みんなトリシュナに、他人のために自分を犠牲にすることを教えた。逆のことを教えてくれたのはアスタルだけだ。アスタルだけが、誰かを害してでも自分を優先することを教えてくれた。

     ―まもってくれなくたっていいの。

    トリシュナは思った。自分のことを守れるようにアスタルが教えてくれたから。そのことにさっきようやく気が付いたのだ。それは側にいてくれることよりも長く、確実に自分を守ってくれる贈り物だ。

    明るい声でトリシュナは答える。アスタルがくれたお守りで、今は彼を追いかけてだっていける気がした。

    「どこにでも」


    おわり
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