素敵な企画をありがとうございます。
猫になりたい(一カラ)
※DV・死ネタ・ファンタジー / ※猫が死ぬので気を付けてください
その瞬間はスローモーションのようで、前髪がふわっと微かに上へ浮いたのに気付きカラ松は「ああ、風だな」と思う余裕さえあった。眉間と鼻の間に一松の握る灰皿が打ち付けられる。一体どうしてそんなことができるんだ。カラ松は少し寂しく思う。同じ日にそう時間を空けずに生まれた六つ子の四男はなぜだか自分にあたりが厳しい。古びたジャージの裾を余らせる一松の左足が勢いよくみぞおちに打ち付けられてカラ松は背中に倒れ込んだ。多分、運動不足の弟より自分の方がよほど喧嘩に慣れていて大したダメージも感じない。ただ暑い。息がつまるような暑さは脳に酸素を回さずあらゆる気力を奪っていく。日差しで黄色っぽく焼けた畳の上に拗ねたようにカラ松が転がっていると、遠くにもうセミの声さえ聞こえた。風のない日だ。暴力が生むささやかな風圧さえやんでしまうと、ことさらそれに気づかされるのだった。
「にゃあ」
背後で猫が鳴いたのでカラ松ははっとした。見れば一松はもういそいそと指に挟んだ煙草の火を消して窓を開けにむかっている。行く先を気にされなかった灰がパラパラと顔にかかるのを手で払いのけてカラ松は思う。猫の為に火を消すのに、俺を殴る前に煙草を消さないのか。
大事にされてないのかもしれないなぁ。血を分けた家族より、猫の方が大事なのかもしれない。そんな風な寂しさがカラ松にくだらない質問をさせた。
「なあ、一松。もしも猫と俺どっちか死ぬとしたら」
「死ね」
うにゃにゃにゃにゃ、と猫が勝ち誇った笑い方をする。そう見えたという話だ。カラ松は肩を竦め、立ち上がって部屋を出た。あーあー、猫になりたいなぁ。そういう風に思っていた。
夜になってもカラ松は帰らなかった。殆どろくに金も持っていない兄なので家に夕飯を食べに帰ってこないというのは由々しいことだった。一松は野良猫に餌をやると言って外に出た。その実、兄を探しに来たのだ。繁華街の飲み屋からパチンコ店の前を通って、公園のトイレの中とか、ゴミの悪臭のひどい路地裏なんかも丁寧に覗いた。一松の姿を見て、野良猫が嬉しそうに寄ってくる。
「にゃあ」
同情的に言うならばこのとき一松はパニックに陥っていた。もともと情緒が不安定であり、行き当たりばったりの暴力に頼りやすい。カラ松を殴るのだってそうだった。だから一松が猫を殺してしまったのも、ただ一概に一松が残忍な男とかそういうわけではないのだ。
昼間はやりすぎたかもしれない。カラ松が帰ってこないのは自分の言うことを真に受けたからではなかろうか。カラ松が死んでしまったらどうしよう。猫かカラ松か、どちらかが死ぬとしたら、そんなのは比ぶべくもない。
「う、うう、帰ってきてよぉ。カラ松……」
一松の手の中で、猫がだらんと首をさげる。だらんとしているのはカラ松だった。猫になりたいなぁと思って本当に猫になってしまったカラ松だ。殺されながらカラ松は「せっかく猫になったのになぁ」と思っていた。葬式は猫の姿で出されるらしい。
おしまい
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