子供の頃は体が弱くて1時間だって起きていられなかった。少なくとも真波はずっとそう信じていた。
    あなたは体が弱いのだから。風を感じるのが好きなのに、窓から差し込む日の光さえ体に障ると言う母の手で、青いカーテンはいつも閉ざされてしまうのだった。もしかすると風通しの悪い部屋で日を浴びないでいるから、あの頃は本当に虚弱だったのかもしれない。とはいえ、肉体自体や身体機能に関していえば自分になんの問題もないことを真波は学校の保険医に指摘されてはじめて知ったのだった。

     どうして嘘をついたんだ、と息苦しい子供部屋にずっと閉じ込められたことを恨まないでもなかったが、そういう言葉を真波が直接母親に投げかけることはなかった。
     真波の父親は真波が物心つく前には死んでいる。結婚前から趣味にしていた登山の最中の事故だったという。幼い息子を残されてたったひとりで育ててきた母親がなにを考えていたのか、その気持ちはわからないでもなかったのだ。
     けれどいつまでも母親の妄言につきあい部屋に閉じこもることもなくなった。なにしろ遊びたい盛りであったし、母親の言いなりになるほど真波は既に幼くなく、また逆に老成してもいなかった。運動のセンスは悪くはなくて、高校になって入った自転車競技の部活では何度か大きな大会の表彰台に上った。母親とは妙によそよそしく、ぎこちない関係が続いた。

     あれはいつ頃のことだったか。母親は依然、真波を病気にしておきたがったので、ある日追いすがる母親を撥ね付けるようにして真波は自転車を漕ぎにでかけたのだ。そのときの母の声音があまりに鬼気迫るものだから、今でも夢に見る。

    「あなたは体が弱いから、外には出れないのよ。山岳ちゃん、あなたはね」


     子供の頃の夢は、胸がしめつけられるようだった。
    そうして悲しくなって目を覚ますと、カーテンが大きく揺れていて窓が開いていることに嬉しくなったりするのだ。晴れている。走ろう、と思った。

    「あ、起きるの?真波くん」

     横から声がかけられて真波は一瞬困惑した。まだ夢うつつのぼんやりした意識のまま、眼前に子供っぽいアニメ柄のカーテンがはためいている。

    「坂道くん?」
    「うん」

     どうして居るの?と訊いたつもりだったのに坂道は、「そうだよ」とちぐはぐに返答して真波の背を起こした。不器用な彼のイメージからは意外なことに、介助に手慣れたらしい自然さがあった。真波はどこかふわふわと坂道が世話を焼くのに身を任せていた。
     
    「起きる?」
    「うん。外に……天気がいいから、自転車に乗りたいんだ」
    「自転車に?」
     
     はっと坂道が表情を曇らせるのを真波は不思議に思った。
    でも、だって、だけど、そう言い淀む坂道が言葉をつむぐのを辛抱強く待っていたが、やがて彼から放たれた言葉は和いでいた真波の態度を一変させるのだった。

    「真波くんは体がよくないから」

     夢の続きを見ているのかと思った。途端に真波は激しい感情に包まれて、自分でも制御つかないまま叫ぶように口にしていたのだ。
     
    「坂道くんも俺に嘘をつくんだ!」

     真波が大きな声を出したので坂道はたじろいで、あ、ああ、と、か細い声をあげた。落ち着きのない両の手が、意味もなく宙を漂って空を掴むのがむなしく見えた。

    「真波くん、真波くん……君はね」

     激情に任せて乱暴に立ち上がろうとしたので真波の体は床に落ちてしまった。きょとんとする真波はそこでようやく膝から下の無い足を思い出したりするのだった。わぁ、と子供が泣くように叫ぶ。

    「大丈夫?真波くん」

     青年になる前には家を捨てた息子を、母親はなぜか今頃、何年も経ってから追いかけてきたのだった。どうして今更、というよりは積年の寂しさが時間をかけて彼女を狂わせていたのかもしれない。警察に保護されたとき真波は滅多刺しの重症で、彼の片足などはあとで腐って使い物にならなくなったのである。

    『山岳ちゃん、あなたはからだが』

     嘘を本当にしようと包丁をふりかざす半狂乱の母の顔を今でも夢にみる。それは子供の頃、真波を引きとめようとした日の母の狂態と重なって、時系の記憶をめちゃくちゃにしてしまう。それで傷ましい事故から2年も経つが、真波はこうして無い足のことを未だに忘れてしまうのだ。真波はしゃくりをあげて言う。

    「嘘だって言ってよ、坂道くん」

     窓が開いていることだけが、救いだった。


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