■2016/1/8 インテにて委託の短編集『棘の町』収録の短編。再録


     トリシュナはよくない娘だったから、宿屋のおかみさんが、粗暴そうな軍人に連れられたトリシュナを見て、気遣わし気に首を伸ばしたのをなんとなく『いやだな』と思ったのだった。痩せっぽっちで煤けた自分が他人からどんなに心配に見えるかなんてトリシュナにはわからないらしい。なにしろトリシュナはほんの九歳だったし、そのうえ家の外の世界に出たのは一昨日がはじめてのことだった。だからトリシュナが常識しらずで、宿のカウンター越しに首を乗り出したおかみさんのことを『鶏みたいで変なの』、と思っても、それは少し仕方のないことなのだ。

    「部屋で待ってろよ」

     ガキ、と呼んで泥のついたブーツの先がこつんとトリシュナの脛を蹴った。カウンターからこちらを見るおかみさんの目が咎めるように鋭く吊り上がる。トリシュナがハッと我に返って見上げると軍人の格好をした男の人がそびえるように(ちびのトリシュナにはそう見えて)立っているのだった。

    「アスタルは?どこにいくの?休まないの?」

     トリシュナは慌ててそう訊いた。するとアスタル(一昨日聞いた軍人の名前だ)は、億劫そうに「お前が暮らせるとこ見つけなきゃなんねーだろ」と言ったので、トリシュナはがっかりしてアスタルのズボンの裾から手を離すのだった。

       *

    救貧院か孤児院―アスタルの話ではそこへトリシュナは遣られるらしい。トリシュナには他にいく場所がないためだ。トリシュナはよくない娘だったので―生まれつき周りの人を嫌な思いにさせたり、死にたいような最悪な気分にさせる不思議な力を持っていたので、それで家族に「家をでるな」と言いつけられていたのだ。戦争がはじまって、町の人がみんな出ていくのをトリシュナは窓からじっと見ていた。そのうち大きな爆発があって町が燃え始めたのだ。トリシュナは「おうちが焼けませんように、おうちが焼けませんように」と言いながら指を組み合わせてお願いをしていたが、ふと浅い眠りから目を覚ますとあたりはすっかり黒い煙で覆われていたのだった。本当はそれで、死ぬはずだったのだろう。
    偶然通りかかったアスタルが(本当は町を焼くように言われたのは彼かもしれないが)、燃えくずのなかでわーわー泣いているトリシュナを見つけて拾いだしてくれたので、トリシュナは生きながらえたのだ。アスタルの肩に抱え上げられながら、トリシュナは燃えくずになった家を見た。それであんなにお祈りをしていたくせに、悪い娘らしくこう思ったのだ。『家が燃えてしまってよかった。だって勝手に家を出たらだめだけど、家がなくなったんなら、仕方がないもん』
     
       *

     最寄りの町にたどり着いたのが、今のことだ。アスタルはトリシュナに宿で待っているように言うと、さっさと出かけてしまった。
    「キューヒンインか、コジイン」

     トリシュナはベッドに横たわって、アスタルが自分を預けるつもりだと言った施設の名前を口にした。そのふたつがどんな場所なのか、トリシュナには見当もつかない。けれどこうしていると底なしの寂しさがこみ上げてくるようなのだ。

     ドアを叩かれたのはそんなときだ。トリシュナは「アスタルがもう帰ってきた」と思って、飛び跳ねるように戸を開けた。すると立っていたのは宿のおかみさんだったのでトリシュナはまたがっかりしてしまう。

    「お嬢ちゃん、大丈夫かしら?」

     おかみさんはトリシュナを覗きこむようにして猫撫で声を出した。「大丈夫?」の意味が分からなくてトリシュナは黙りこむ。おかみさんは、じろじろとトリシュナを見渡して(本当はおかみさんはトリシュナが悪い人に浚われてるんじゃないかと思って様子を探りにきただけなのだが)、トリシュナは居心地の悪い思いをした。どうしておかしな目で私のことを見るんだろう、そんな風に思っていたし、おかみさんが矢継ぎ早に質問をするのも煩わしかった。
    (「あの人はどこに行ったの?」「家族の人は?」「困っていることはない?」「正直に言っていいのよ」)

    やがておかみさんは、はっきりしないトリシュナに痺れをきらしたのだろう、トリシュナの煤けて汚れたスカートの裾を無遠慮に掴み上げたのだ。

    「ねぇ、ちょっとごめんなさいね」
    「いやっ」
     
     トリシュナはびっくりして飛び上がってしまった。トリシュナは生まれつき皮膚の異常で、顔の半分と足の付け根から爪先までにびっしりと蛇のような鱗が覆っている。それが恥ずかしいからガーゼで巻いて隠しているのだ。だけどおかみさんは痩せた腿の付け根にあてられたガーゼを違う風に受け取ったみたいだった。そっとスカートの裾を下ろし、「やっぱりねぇ」なんて言って同情深い表情でトリシュナに微笑むのだ。

    「酷いことされてんだね、逃げるなら今のうちだよ」


    カッとひどい怒りでトリシュナは頭がいっぱいになった。トリシュナはまだ小さくて、おかみさんがどんなことを指したのかはっきりとは分からなかったが、けれどすごく恥ずかしくて侮辱的なことを言われたということがなんとなく分かったのだ。

    「アスタルはひどいことしないよッ!」

    ほとんど反射的にトリシュナは大きな声をだした。トリシュナが叫んだ瞬間、おかみさんが打たれたような顔をしたのだがトリシュナは構わなかった。乱暴に扉をしめて部屋に駆け込む……それでもなんだか無性に腹がたって悲しくてじっとしていられないのだった。湿気臭い布団に転んで鼻先を枕に押し込んで、耳を塞いでそれからトリシュナは「わぁーっ」と大きな声を上げた。怒られるかもしれないと思ったが、それでもよかった。へそを曲げてやけっぱちになっていたし、つまりはほんの子供だったのだ。そうしてそのまま少し眠ってしまった。

       *

    アスタルが帰ってきたのは、夕時のことだ。

    そっと肩を揺り起こされたトリシュナは、アスタルがひと休みもせずに宿を出ると言ったので「変だな」と思った。だけど、救貧院が見つからなかったとも聞いたのでそれで嬉しくなって、他のことは訊くのを忘れてしまった。

    「ねぇ、アスタル」

    アスタルの顔を見てトリシュナは、「おかみさんがアスタルのことを悪く言ったんだよ」と告げ口しようか迷った。けれどアスタルが傷ついてしまうことを想像したら、このことは胸のうちにしまうことにしたのだった。
    さて、そのおかみさんのことだ。


    宿をでるとき、アスタルはカウンターにお金を置いた。ところがおかみさんは椅子に深く座って俯いたきり、顔もあげないのだ。トリシュナはまたムッとして、おかみさんを睨んだ。けれど、そうしてよく見るとおかみさんはまるでどうやら死んでるようなのだった。
    ―自殺をしたんだ。
    トリシュナは息を呑んだ。おかみさんの首に縄のあとがあるのを見つけたからだ。それからすぐに、自分のせいだとも気がついた。トリシュナには人を憂鬱で絶望した気持ちにさせる力があるし、昔、うんと小さい頃、家に来たお客さんに歌を披露したときお客さんは気分が落ち込むといって帰ったその足で、崖から飛び降りて死んでしまったということがあったから、そういうことには慣れていたのだ。

    だけど、どうして椅子に座っているんだろう。トリシュナは少し考えて、それからハッとアスタルを見た。宿に帰って死体をみつけたとき、アスタルには大体、なにがあったのか分かっただろう。それでトリシュナが気が付く前になにくわぬ顔で死体を椅子に座らせたのだ。トリシュナが気に病むと思ったのだろう。

    「ほら、挨拶しろよ」

     おかみさんの死体をじっと見ていると、ぶっきらぼうにアスタルがトリシュナの頭を小突いた。あくまでトリシュナに、死んでしまったおかみさんのことを気取らせまいとしているのだ。
    それでトリシュナはなにも気が付かないふりで振り返り「ばいばい、おばさん」と言った。優しくされたのが嬉しくて、明日からいい子になろうと思った。
    死体は答えない。伸びてしまった首をぐったり垂れて、やっぱり鶏みたい、最後にトリシュナはそう思った。



    おしまい
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