(※2016年のスパークにて発行した短編集「悪い種」より、1話抜粋して収録。
    最終回後世界。R-18。不快な後味を含みます。)






     アスタル・テイムはテツジン・グランキオによって殺された。それはもうまるで疑いようのない事実なのだった。目を覚ましたとき、アスタルは自分が身を横たえるシーツが白く肌触りのいいことに驚いた。土埃や生ゴミの臭いのしない、清潔なベッドで目を覚ましたのは生まれてはじめてのことだった。それから、湯の沸くしゅんしゅんという柔らかい音とコーヒーの香りに気がついて首を巡らすと、木製の椅子に腰掛ける赤錆色の機械兵が二人分のカップを用意してこちらを覗き込んでいるのだった。こんなに奇妙で上質な朝ときたらない。アスタルが思わずにやけると、テツジンは機械らしいそっけなさで「ひさしぶりですね」と言った。

    「まだしばらくは記憶が混乱することがあるかもしれませんから、少し様子を見るようにと」

     それが医者の指示によるところだとテツジンは告げた。ハンドドリップで丁寧に淹れられたコーヒーは香りが良く、戦場で支給される黴びたようなインスタントとは段違いだ。その昔テツジンがまだアスタルと同じ戦場にいた頃、何故だか急に『調理』に興味を示して淹れてくれた重いタールのような液体を思い出してアスタルは余計可笑しかった。

    「『混乱するかも』どころの騒ぎじゃねぇよ」

     生きてるのか、俺は。半ば自分でもふわふわと実感のないままにアスタルが訊ねると、テーブルの向かいに座るテツジンはコーヒーの底に残る砂糖をかき混ぜながら「そのようですね」と、あくまでも鷹揚なのだった。

    「旅先で手紙を受け取りました。アナタがここにいると、写真が入っていた。それで急いで帰国したというわけです。私が帰ったとき、アナタは眠っていましたが……ここ数日のことを覚えていますか?」
    「いや……。俺が覚えてるのは、俺がお前に負けて殺された。それが最後だ」

     ふむ、と言ってテツジンは顎下に指を添えた。見ないうちに随分、人間のような動きをするようになったのだとアスタルは思った。思案するように、右斜め上方に首を傾けてみる様など、もう長年すっかりそうしてきたかの様に堂に入っていた。アスタルの知る、戦場を駆ける機械兵テツジンとはどうやら勝手が違うようだ。

    「実のところ、アナタは記憶もあやふやで、今のところ安定した存在ではありません。世間的には、こうです。アナタは世界を傾けかけた怪物一派のひとりで、なにか理由があってこうして生きている。アナタが今、どのような人間なのか、あるいは化け物なのか、それは誰にもわかりません。ただアナタが私の住処を訪ねてきた……生憎留守中でしたが、アナタに記憶がなくとも、アナタが私を訪ねて来たのなら、世界怪物対策本部はアナタの身柄を一時的に私が預かることを認めました」 
    「俺がまだ何するかわからねぇから、お前の見張りがいるって?」
    「ええ。しかし、これは私の望むところでもあるのです」

     変わらずテツジンの言葉は平々坦々としたものだったが、次いで出たその言はアスタルから二の句を奪い、怒っているとも呆れているともつかない歪な笑みを浮かべさせるのだった。

    「アナタと平和のなかで暮らしてみたかった」



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     外出を禁じられることは、今のところアスタルにとって特にストレスではなかった。料理人になる、と言って戦場を去ったテツジンをその昔アスタルは大いに笑ったが、こうして日々暮らすなかで振る舞われる家庭風の料理の品々を口にした今となっては以前のように笑ってしまえる気にはとてもなれない。新しい暮らしは上々だ。清潔で安全なベッド、飢えを凌ぐだけには贅沢な温かい食事、テツジンがいつもごく近くにいるというのも気に入っていた。アスタルは自分の上機嫌を省みて、その理由をこう結論づけた。

    「お前のことが前から好きだった気がする」

     就寝用に着るものは用意されていたが、シャワーを使ったあとは大抵下着しか身につけない。ベッドに潜り込み、なめらかなシーツの感触を素肌で味わっていたアスタルはすっかり満足してテツジンに言った。餌付けされたんじゃねぇぞ。多分ずっと前からだ。するとテツジンは感動したとでもいうように唐突にベッドの上からアスタルを掬い上げ、少し先の尖ったフルフェイスがアスタルの鼻に接触するのだった。

    「なに?」
    「口吻をしました」
    「ははっ!今のが?」

     テツジンの不格好がアスタルは気に入ったらしい。声を立てて笑うと、赤錆色の頭を抱き寄せた。古めかしいアーメットヘルムを模した様なテツジンの顔は土色をした顎下とそれを覆うよう目鼻の位置に錆色のバイザーの構成だ。色の切り変わる境目に、アスタルは軽く歯を立ててみた。そうして取っ掛かりのないテツジンの顔から、どうにか口らしき場所を探すように舌を這わすと、機械兵は応えるように首を傾けるのだった。

    「くそ、舌吸われてぇ」

     鋼鉄の面を唾液でべたべたにしてしまって、ふとアスタルはテツジンにできないことを強請った。べ、と突き出された物欲しいアスタルの可愛い舌をテツジンは代わりに指で挟んで扱いてやる。口腔の粘膜と舌を持たないテツジンにはそれがどうやら愛撫の代わりだ。口の中の器官を存外乱暴に引っ張り出されてアスタルは目を白黒させたが、テツジンの肩口に強くしがみつく他はさしたる抵抗も見せなかった。指を離すと引っ込んで逃げる舌を追って口の中へ、揃えた指を二本侵入させると積極的に舌を添わせてくる。上顎の裏の粘膜が性感帯だ。くすぐってやると「ふっ」と鼻にかかった吐息が漏れた。

     もう少し親密に触ってもいいでしょうか。

     やがて、テツジンがそんな風に言ったのでアスタルは驚いた。ぽかん、と半開きになった口の端を唾液が伝う。

    「お前、性欲ってあんのか」

     問い掛けるアスタルの言葉は疑い半分、期待が半分といったところだ。テツジンは平然としている。

    「心の動きに起因する衝動は、今ならひとしきり分かります」

     しばらく会わないうちに、随分精巧に人間を学んだものだ。淡白な口調のままのテツジンに肩を抑えられ、再びベッドに体を横たえられるようにされながらアスタルは思わず笑った。平坦な口調と言葉の割に、有無を言わさぬ力強さなのが可笑しい。テツジンが首を傾げる。

    「なにか面白いことがありましたか?」
    「あるに決まってんだろ。ついさっきまでこのベッドの上が世界一安全だって考えてた」

     こんなところで戦場最強の殺戮兵器に襲われるなんて思わねぇだろ。声が裏返って震えている。怯えているわけもなく、笑いが抑え切らないのだ。機械兵は心外を声音に乗せた。

    「見込み違いですよ」



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    ただでさえ上等な暮らしにセックスが加わった。それはアスタルにとって歓迎すべき事柄だった。気持ちのいいことは好きだ。それが人生をかけて執着した相手によるものなら殊更だ。自分を殺した男に肌を撫でられるのは少しゾッとする快感だった。

    「傷が残りましたね」

     アスタルの腹を横断する裂傷の痕をみつけるとテツジンは物思いにふけるようにそれを指でなぞりアスタルの体は咄嗟に総毛立った。身震いしたのは殆ど本能的な、無意識下の反応だったがそれが自分で屈服を示したようで気に食わないらしく、性感の為に震えたのだと言い訳をするようにアスタルは腰をテツジンの腿に擦り付けた。衣類を身に着けていない機械の肌はつるりとしている。戦争の為に作られた、ただそれだけの機械であるテツジンは人を愛する為には作られていない。はじめの日に手指の愛撫でイかされたのも十分よかったが、テツジンに性器にあたるパーツがないと知りアスタルは少なからずガッカリした。所詮一時凹凸を合わせるだけの行為だと言われても繋がることができないのはもどかしい。不満気なアスタルの様子にテツジンが次の折に持ち込んだ太さの違う幾種類かのディルドは、アスタルの失望の根本的理由からすれば的外れだったが、これは人の心の機微を理解しないテツジンらしさと、こういうものを持ち込んだ機械兵らしくない下品さが気に入っている。

    腹の傷を撫で擦るばかりでテツジンがなかなかそこから離れようとしないことにアスタルは焦れて脇腹を蹴飛ばした。

    「なにしてんだよ」
    「反省を……いえ、後悔をしています」
    「それ今か?他にすることあんだろ」



     早く、それ入れろよ。シーツの上に転がしっぱなしの卑猥なおもちゃを行儀悪く足で蹴上げて、テツジンの腹にぶつけるようにする。ごん、と固いもの同士がぶつかる音がしてアスタルは笑った。


    「お前が役に立たねぇ竿なし野郎だから、それで気持よくしてくれようってんだろ。なら、そうしろよ」

    中を拡げてやるときにはテツジンは厚い指用のサックを着けた。鋼鉄でできた指関節が粘膜を傷つけてしまわないようにするためだ。ゴムの表面には潤滑剤がついていてそのまま何もまとわないよりは挿入が容易い。ボトルから直接ローションを手に取るよりシーツを汚してしまう確率が低いのも都合がよかった。アナルを使ったセックスに慣れているアスタルの入り口は周りがふっくらと盛り上がり、体つきは男らしいのにそこだけ歪に雌じみている。下品で気味が悪くいやらしい。指にまとったローションと腸液があわさってぐちぐちと音がなるまで掻き回してやってから、テツジンはやはりこちらもゴムを被せたおもちゃをひくつく穴に宛てがった。息むように、と命令しなくてもアスタルは自分から呼吸を合わせて細いわけではないそれを腹の中に飲み込んでいく。いい子です。協力的な態度のお礼にそう言ってテツジンが髪を撫でると、アスタルはニヤリと嬉しそうに口の端を上げて応じた。


     入り口近くのゆるい抜き差しは馴染まないうちはまだ気持ち悪さが残ると見えて、少し奥歯を噛んだアスタルの肌にふつふつと鳥肌が立つ。ディルドは側面に緩やかな凹凸のデザインで、一度太いところを飲み込み息を吐いた後、またすぐにキツいところがくる。前へ進んでも退いても抜き差しを繰り返す度に刺激が強い、意地の悪い形だ。

     一度途中でつっかえて、それ以上先へ進まないとわかるとテツジンはディルドを少し抜き出してなじませるように緩く前後に揺すった。

    「ぅあッ、あっ、ン……うぅ〜っ……」

     ディルドの形に合わせて拡げられては少し窄んでを繰り返す刺激が辛いのか、アスタルの額に脂汗が浮かんで足の指は握っては開いてを繰り返す。隙間の出来やすい形状の所為で空気が混じってぐぽっぐぽっとえげつない音が響いた。苦痛混じりの行為のなかで少しでも快楽の占める割合を大きくしようとアスタルが自らの性器に触れる。そうして半ば勃ち上がりかけているペニスを握りこみ、擦りたてようとするのだが、それは僅かもしないうちに横から伸びてきたテツジンの手に邪魔をされてしまうのだった。

    「自分で触りたいんですか?」
    「んっ、ん…!う、ぅっ!」


     きつく目を伏せたままアスタルは頷いた。我慢のできない性格で、無理矢理に解いてでも自慰をしようともがいたが手首は未だ掴まれたままで放してもらえない。焦れたアスタルが熱っぽくぼやける視界でテツジンを睨むと、テツジンはそんな視線は気にも留めないらしい。鷹揚に「それなら、こちらに」と言ってアスタルの手をディルドの端に導いた。

    「自分で持って。動かしてください」

     一瞬アスタルの目が見開かれる。それでも驚いて引っ込めようとする手を強引に引かれて、ディルドを咥えて引き伸ばされているふちの辺りに指が触れてると痺れるような快感に腰がひけた。もともとマゾヒストの気がある。苦しいのと気持ちの良いことは一輪繋がりだ。いやらしいことを命令されて、プライドを傷つけられたようになるのも嫌ではない……。逡巡はそれほど長くはなかった。

    「くそ…覚えてろ……う、あっ、う……」

     やがて覚悟を決めたようにアスタルの手がディルドの端を掴む。悪趣味が、と罵ることを忘れなかったが、それでものろのろと手を動かし始めたのを確認してテツジンは汗ばんでいるアスタルの胸を掌で撫でた。体温のない冷たさにびくっとしてアスタルの肩が跳ねる。乳首の先端をかりかりと引っ掻いたり、乳輪のなかに押しつぶすようにしてやると、冷たい鉄の指先に捏ねられてすぐに固く芯を持って尖る。きつく上に引っ張るように摘んで、紙縒りをよる様に指の腹を擦りあわせ弄られるとアスタルは長く尾を引く猫のような声で鳴いた。

    「あ、あぁ〜っ、あっ、それ…、ひっ、あんま好きじゃねぇ…嫌だ……」
    「その主張には納得できかねます、アスタル。嫌がっている人間はここをこんなに濡らしたりはしない」


     テツジンの指摘するとおり先ほどから触れられてもいないペニスはいつのまにかパンパンに張り詰めて先端からカウパー液を零している。射精を求めてぱくぱくと口を開いている尿道口は一層哀れなぐらいだったが、テツジンは性器への刺激の一切を無視するつもりでいるらしい。
     根本から強く摘まれて充血した乳頭を、背が緊張してぴんと反るのを確認してふ、と離す。腫れてぷっくりとしてしまう乳首の先端に指の腹を置いてくるくると撫でさすられると、緩急のある甘い愛撫にアスタルが嫌々をするよう首を振った。

    「それ、無理……や、…嫌だつって、ンだろ……」

     瞳がどろりと濁って性欲に溺れている。射精につながらない胸での快楽をアスタルはどこに逃せばいいのか分からないらしい。逸しようのない快感に腰がゆらゆらと揺れてしまう。一呼吸が深く、荒く、だんだん大げさなものになる。テツジンがなんの感情も伺えない平坦さでいるので、まるで冷淡におもちゃにされているような、居た堪れなさで不安になるのもたまらなく良かった。

     ――ひとりだけこんなに翻弄されて取り乱している。快楽のまにまに我に返ってはカッとなってしまう。機械であるテツジンの体には触れられる感覚がなく、思わず声をあげることもなければ息を乱すこともない。ただアスタルの一挙一足を凝視している。時折、熱のない声で指示をだしながら。膝を立てて、もっと見えるように。手が止まっています。声は上げても構わない……

     既にアスタルは余裕をなくし、手の動きはおざなりになっている。それでも指摘されれば、はっとして中を掻き回す水音を立てるのは殆ど意地でやっているらしい。

    「お前……こんな見てるばっか、なんか、気持ちいいのか、よ?」
    「ええ、快感というのは必ずしも身体的刺激を要しない」
    「は?…あッ、あ…なに、んっ、馬鹿にも分かるようにっ、言えって……!」

     アスタルの黒々として濃い下生えの根本のあたり、その少し上を掌の腹でテツジンは抑えた。浅いところを緩慢に掻き混ぜていただけの手を退けさせて、ディルドの端を掴み何度か角度を調整すると嫌な予感に緊張してアスタルは喉を鳴らす。おもちゃの先端が自分では探すことのできなかったイイ場所に当たっている。とん、とん、と二回やさしく押しては引いたのが覚悟をしろと促されているようだ。そんな風にされると、許しを請いたくなってしまう。引き締まった腹の内側から外へ向けて、少し膨れた辺りをおもちゃの先でごりごりと押し上げられアスタルは殆ど悲鳴のように声をあげて逐情した。絶頂に痙攣する最中にも臍の下を圧迫する掌に腹の外と内側から容赦なく前立腺を揉み込まれる。見開いたアスタルの色違いの両目からぶわっと涙が浮かんで零れた。

    「っあ゛、あっ、あぁ〜〜!死ぬッ……それっ、も、死ぬ……!」
    「気持ちいいですよ、アスタル。ペニスを有しない体でも、アナタを泣かせることは気持ちいいと感じます」

     明け透けな言葉にぎょっとしたのもつかの間、弱いところを押し潰していたディルドを奥の、もう入らないと思ってた先に押し込まれて絶叫した。機械人形に表情なんてない筈なのに、意地悪い顔をされているとアスタルは思った。




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     自分の記憶にどうも奇妙な空白があるらしいとアスタルが気づいたのはしばらく後のことだった。古い記憶になるほどからっきしで、生まれた国や家族のこと、傭兵家業をはじめるまでどこでなにをしていたのか、そういったことがすっぽり抜けている。アスタルの記憶はテツジンを見たその日から始まる。西日が差して朱色に染まるふさ飾り、土煙と返り血で汚れるのを気にもせずに駆ける鋼鉄の姿、爆音と怒号の中で不気味なぐらい平坦な、無感動な機械の声・・・おかしなくらいテツジンのことだけはよく覚えていた。交わした言葉のひとつひとつ。その日の空の色や雲の形まで鮮明に。その癖、テツジンが戦場を去った後、自分がどう過ごしていたかになると酷く曖昧になるのだ。

     それだけテツジンに執着していたということだろうか。分からないでもない、が、それにしたって極端だ。アスタルがテツジンに違和感を訴えたときのテツジンの反応はいつもそっけない。

    「混乱しているんでしょう、今はまだ」


     テツジンはまるで興味が無いのか、それ以上考えなくてもいいとでも言わんばかりだ。昼間は仕事に出ている。料理人の仕事を、続けているらしい。テツジンが出かけてしまうとアスタルは途端に手持ち無沙汰になってしまう。家には退屈しのぎに手に取れるような本や雑誌の類もなく、外出は禁じられている。律儀に守ってやることもないのだが……アスタルは仕方なくひとりでいる間、欠けてしまっている自分の記憶へ思いを巡らせることが主だった。

     その日はふと電話機の横に投げ出されたメモ帳が目についた。取りとめもなく思考を上滑りさせているよりは幾分建設的だろう。四方形の紙の束を引き寄せて、アスタルは覚えていることをつらつら書き出してみることにした。思い出すのは、そうだ。配給の不味いクラッカーの味。砂漠の粉争地域。昼は茹だる様に暑く夜は凍えるほど寒い。星がよく見える。特に混乱の酷い前線に出されることが多かった。死んでも構わない雇われ兵だからだ。気がつけば死ぬことのない機械兵だけが傍に残った。白い床。硝煙の臭い。電子音。頭の中に無数の機械のパーツが並ぶ様が浮かんでアスタルは手を止めた。塗装の施されていない、人の手指の形をした金属の腕。あれはテツジンのものだろうか。作業衣を着た人間が歩き回っている。クーラーが効いているラボの一室が見える。どこで見たのだろう。戦場は荒野だった。

     テツジンが外の仕事から帰ってもアスタルは自分の記憶を辿っていた。日が暮れかけて部屋が暗くなるのに明かりをつけずにぼんやりしているアスタルを訝しがってテツジンが近づいてくる。それから、メモ用紙に気がついたらしい。食い入るようにじっとアスタルの手元を見ていたテツジンが不意に冷たい声をだした。

    「なにをしているんですか?」

     それがあまり咎めるような響きを持っていたのでアスタルはぎくりとして後ろを振り向いた。表情のない機械兵は不思議と「怒っている」そう思えるような気配をまとっていた。

    「なにって?別に、覚えてることを書いてるだけだろ」
    「アナタは字が書けない筈です」

     言われてアスタルは当惑した。手元には用紙の束から千切った紙切れが三枚、いずれもアスタルがとりとめもなく思いつくまま書きだした文字で紙面が埋まっている。その作業に特に苦労がいったということもない。テツジンの言葉は断定的だ。そんな筈はないと反論したかったが、果たして自分に読み書きができたか、その記憶は考えたところでアスタルにはなかった。

    「だから、なんだよ。お前の勘違いかもしれねぇだろ」

     結局、どうだっていいことだと結論づけてアスタルはそんな風に言った。わけの分からないテツジンの態度にいい加減苛立ってきてもいる。字が書けないだと。アスタルは目の前のメモ用紙の余白にこう書き殴って見せた。『馬鹿馬鹿しい( Whatever )』テツジンの反応は過剰だった。

    「違います。アナタは違っている!」

     機械兵が怒鳴るところなど、見るのはこれがはじめてであったかもしれない。おそらく戦場でさえ、なかったことだ。日は完全に落ちきってふたりきりの部屋に暗い陰を落としている。

     声を荒げた後、そのあとは殆ど独り言のようでしかなかった。テツジンは酷く失望した様子で頭を垂れ、どうしてなのか、いつもそうだ、といったような言葉をいくつか繰り返した。やがて出たテツジン言葉が身勝手なものだ。

    「勝手なことをやめて、おとなしくしていればいいのに」
    「俺はお前のペットか?」

     言い終らないうちに頬のあたりに眩むような強い衝撃が走ってアスタルは目を見張った。

    ……殴られた。唖然とするより先にカッとなってアスタルは拳を握った。そもそも気性の穏やかなタチではない。ハッと息を飲んだ自分のしたことに動揺しているテツジンの頭を殴り返して、なにか重いものを探す。灰皿は無い家だから、分厚い辞書でも置き時計でもなんでもいい。それでめちゃくちゃに殴り付けてやる。振り上げて、また振り下ろす。そうしようとアスタルは思ったが、けれど実際にはなにか見えない力に阻まれてアスタルの手がテツジンに触れることはなかった。危害を加えようと意思を持った瞬間なにか頭のなかでけたたましいブザーのような音が鳴って動くことができなかったのだ。頭が割れんばかりに痛んでとてもまともではいられない。

    「 あ、あ゛……ぐっ」

     あまりに苦痛が酷く、アスタルは膝をついた。先程殴られたときに頭のどこかがショートしたのかもしれない。故障?という疑念が頭に浮かんで、おかしな話だと自ら否定する。それではまるで

    「無駄なことです、アスタル。アナタはそういう風にできていない」

     テツジンは気の毒がるか、あるいは悲しむように首を横に振って言った。アスタル、アナタは考えてはいけない。言われている意味が分からない。頭の中のノイズを振り払うように首を左右に激しく振ると、バチっと弾けるような音がしてアスタルは自分が最初に目を覚ましたときのことを思い出した。

     青白く光るモニター。数字の羅列。金属で出来た体に人工皮膚が貼られていく様。あの機械の腕は俺だったのか。コーヒーの匂いに目を覚ますより早く、もう少し先から自我を持っていた。すぐに上書きされてわけが分からなくなってしまったが……。薄暗いところに寝そべって天井を見ている。鼻先から三センチも離れていない。それから光が差して、天井が開いた。棺桶の蓋みたいだった。梱包材を掻き分けて錆色の腕が自分を抱き上げた。アスタルは振り向いて、自分が棺桶のようだと思っていたものがなんなのか、どこから取り出されたのか確認した。

    「箱……?」

     ああ。諦めにも似た嘆息をテツジンが吐くのをアスタルは聞いた。




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     実のところ、アナタは本物のアスタル・テイムではない。テツジンが言うには、そういうことだった。

    「アナタが死んでから、四〇〇年が経ちました。私のような旧型のアンドロイドと違って、アナタ達は随分精巧になった」

     アナタはダッチロボットです、とテツジンは告げる。滑らかな皮膚と粘膜の層を持つ、人間に近い姿でセックスの為に存在するアンドロイド。アスタルはといえばテツジンの冷たい平坦な声が、そんな風に性具の名前を口にするのがなんだか良いなと感じていた。言われていることにまだ現実味がない。


    「アナタを殺した後のことです。世界を救った戦いに貢献した私には、望むものが与えられました。国の予算で、なんでも。私は、私の記憶しているアスタル・テイムの情報を元にアンドロイドを作ってもらった。生前の様な姿のアナタを手に入れるまでには勿論、長い時間を待たなければいけませんでした。幸い、私には時間は殆ど無限にあったから待つことは構わなかった。むしろ楽しい時間ですらありました。なぜなら私は……、最初にも言いましたが私は、アナタと平和の中で暮らしてみたかった」


     戦いの日々が終わり、平和に日々を暮らす中でテツジンを苦しめたことがある。テツジンの手によって死んでいったアスタル・テイムという存在だ。人間めいた感情が豊かになるにつれて、テツジンの胸を突如後悔が襲った。自分のせいで人生を狂わされた、死ななくてもいい男を殺した。アスタルについてそう考えるようになった。なにしろ機械の体に時間の流れは無限で、眠りを知らないテツジンにはひとりで考え込む夜が何度もあった。そのうち気がかりは暮らしが穏やかで優しくあればあるほど後ろめたさとなってテツジンを苛みだした。平和のなかで一緒に生きていくことができたらよかった。あるいは気休めでもいい。そう思い込んで生きていくことができたら、どんなに心は安らかだろう。

     まるでふと、死んだアスタル・テイムが生き返ったかのように、テツジンはそんな風にアンドロイドと接することを望んだ。生まれたばかりの機械人形にそれらしく考えた設定を吹き込むとき、テツジンは自分でももしかしたら本当にアスタルが生き返ったのかもしれないと信じる瞬間すらあった。

    「だけど結局だめになってしまう。アナタより以前にここに来た機体もありましたが、その誰も、完全には私の知っているアスタルでありえなかった。どうしてなんでしょう、アンドロイドがこんな風にプログラムの外の思考や記憶を持ち得てしまうのは・・・・・・」

     テツジンは、まるで人間のように笑って「私が言うのもおかしな話ですが」と付け加えた。寂しげな口ぶりにアスタルの胸にふつと寂寥が走ったが、それがプログラムによるものか己の思考によるものかは分からない。


    「俺はどうなる?」
    「廃棄します。アナタを見ていると本物の彼がここにいないと痛感する。それはつらいことです。私は新しいアスタル・テイムを迎えるでしょう。次こそは完全な彼に会えるといい」

     アスタルの目に落ちる暗い絶望の陰をテツジンは見ないふりをした。返品と廃棄はもう幾数百繰り返していた。その度にまた新しいアスタル・テイムが国の研究施設から届き続けるのは、機械兵の心を同じ機械が癒せるのか、それ自体が興味深い研究のテーマ対象となっているからだ。ダッチロボット、アスタル・テイムはテツジンの孤独を癒やす為に作られる。アスタル・テイムの記憶データを持ち、テツジン・グランキオを愛し、不具が見つかれば捨てられる。そういう風にできている。

    「スミマセン、アナタにはいつも可哀想なことをしてしまう」

     テツジンはそう言って、何百回とそうしてきたように慣れた手つきでアスタルの頭を撫でて部屋の外へ出て行った。

    「役所にいってきます。昨今のように機械が人間に近しい姿や意思のようなものを示すようになってから、個人による自由廃棄は認められなくなった。人道に反するというのでしょう。今ではアンドロイドの処分ひとつにも正式な届けがいる……」


     短い外出から戻ったら、テツジンは自分を廃棄するのだろう。逃げても構わないと言われたが、そうする代わりにアスタルは引き出しから大きな鋏を見つけだした。そうして自分の喉下をかき切ってみると、なるほど確かに、血も涙もでないのだった。



    おわり
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